野菜にガイガーカウンターを近づけ、
バックグラウンドよりも上にカウントするかを
目視する。
旭村 ミズナ アウト
なめかた さつまいも アウト
(↑いつ取れたものか?保管方法がまずかったのか?)
産地不明ちんげんさい アウト
ホウレンソウと小松菜もグレー。
産地不明4種類あって、単に埼玉とかいているものも。
が今日の状況。
野菜売り場が比較的汚染濃度が濃いのがそれを
物語っている。
もちろん、きれいな野菜もまれにあるのだが。
この計り方はあまりガイガーカウンターを使い慣れていない人には
おススメしませんが、参考程度にはなる。
地名を出した農家の皆さまあしからず。
このような消費者もまれに居るということです。
食中毒のお肉が話題になる昨今、食肉のチェックも
怠ってはいけない。基本的には国産と書かれている肉は
我が家では買わない。
青森でも経験したが、青森のスーパーでも
怪しい野菜も魚もある。
青森県は福島、群馬、茨城の野菜がたくさん置いてあった。
正直、原子力疎開をしている自分にとっては、
不快な気持を正直持ったのだ。(ごめんなさい。)
茨城県にいつしか、茨城の野菜しかならばなくなった。
事故直後は関西からたくさんお野菜が入って来て、
助かっていた。
現在、関東で食べられる物はないのかもしれない。
被災地の農業を救おうという消費者意識に
つけ込む不可抗力でもあり、故意でもある
野菜の放射能汚染の無法地帯化。
魚はもっと厳しいかもしれない。
あなたの猫が子猫を抱えているかどうかを確認する方法
4月中旬、鶏卵の異変に気付いた事もあった。
卵を調理する際、殻を割って、かき混ぜて
焼いた瞬間に
ガイガーカウンターの数値が跳ね上がった。
0.16が0.25へ。
子どもがまさに食べようとした瞬間奪い取って
ゴミ箱に捨てた。
犯人はおそらく、黄身なんだろう。
放射性物質が中心にあって、まわりを白身が多い
殻が覆っていると、さらにポリのパックに
入っていて、それをガイガーカウンター当てても、
なかなか数値が判別できない。
当時、鶏卵は大丈夫と報道されているが、分析しているのか、
どうかは不明で、私は全く信用していない。
(まるで戦時中のどさくさに紛れるっていうのと同じような気がする。)
あの頃は放射性ヨウ素がまだあった時期に
オーバーラップするので、あれだけ跳ね上がるのは
ヨウ素か?とも考えている。
近所の卵は避けるようにしているが、
遠い産地のものはなかなか手に入らないのが現状だ。
豚や牛に比べると鶏は体が小さい。
小さいものから被ばくする。いずれ食物連鎖で
必ず人間に帰ってくる事を忘れずに。
うちの子どもが鳥のから揚げが好きだけれども、
外国産と国産鳥取の大山の鳥が入ってこないと
鶏肉は食えない。
原発から約108キロに位置する自宅。
京都大の小出先生のある日の講演会の動画で
東京の空気を
サンプリングして測定された生データがあり、
1.76μSv/hrという結果で組成まで出ています。
ペーパーフィルターにてエアーサンプリングをして
ヨウ素は紙に吸着されにくいため、
ヨウ素は少なめに検出される傾向がある。
そのため、この1.76という数字は
実際より低い値ではないかと考察していらっしゃる。
実際この濃度の空気をを呼吸により取り込めば
内部被ばくは17.6μSv/hrとなる。
とのことだった。
その話を少々乱暴ではあるのだが、
常陸太田の真弓のモニタリングポストの数値に
置き換えてみると
仮に、本当にそのデータが当たりだったとして、
200μSv/hrだから
内部被ばく
2000μSv/hr→2mSv/hr
2mSv/hr×24時間=48mSv/day
3月12日〜3月15日ざっくり4日
48mSv/day×4日=
192mSv/4日
4日で192mSvも呼吸で内部被ばくしたのか?
我々家族。
私の赤ちゃんは現在、どのように表示されません
真弓のモニタリングポストの数値を
今回の自宅付近にあてはめれば、
以上のような計算式になり、
この地域の人は、
たった4日で原発作業者並み以上の内部被ばくを
しているのか?
この件については、
木下 黄太さんからの指摘もあり、
高濃度だった時間はもっと短かったのではないか。
というお話もありました。
真相は・・・? 不明だ。
3月27日、東名富士のあたりで、
富士山の向こうの空気がねずみ色に見えた。
利根川を越えて北に入った時、空気が重かった。
濃度が分からない茨城県に3月27日夜から3月29日
昼まで滞在している。
主人は、その後、ずっと常陸太田にいる。
私と子どもは青森に行く。
4月6日夜、常陸太田に戻る。
それから、23日間常陸太田に滞在。
4月29日から5月7日学校を途中2日休ませ
青森に再び疎開。5月8日から現在は常陸太田。
子どもの内部被ばく線量をある程度、親としては、
計算して健康管理する必要がある。
したがって、地域のモニタリングポストの
データが必要だ。
しかし、この状態では年間20mSvは軽く超えるのであろう。
今回の事故の初期から、現在までの、
内部被ばくの積算量を計算したいのに
モニタリングポストの数値が4月以前のデータが
どこを探してもない。
先日も4月24〜25日頃、一斉に近所の複数の
モニタリングポストの数値が上昇した事があった。
埼玉の友人から数値が急激に上がっている
チェックしてと悲鳴にも似た連絡があったのだ。
翌朝になるとデータは消え、何もなかったように平らに
なっていた。
誰かが情報操作していると思った。
だから、何も信じられないのです。
一応、公に見られるモニタリングポストではありますが。
その本来の役目は果たされていないという事になる。
あなたがpreganantている場合どのようにKNOん
先に記述したモニタリングポストの件だが、私の目で
確かめたわけではない。
小学校の運動会を欠席させる事を担任に伝え、
その件について、校長先生と話合いが持たれた時に
耳に入ったつい最近の話である。
全校生徒でたった一人運動会を欠席する我が子。
同級生に「お前のお母さん気にし過ぎなんだよ」とか
揶揄される事もあるようです。
小学校6年生の最後の思い出になる運動会ではあったが、
思いでよりも
少しでも被ばく量を抑える事を選択してきたつもり。
だが、これでは、すでに決着がついているかもしれない。
(病気になるとか命に関わる量の被ばくをすでに
十分越えていて多少被ばくを避けたとしても無駄ということかも)
そんな風に思うと悲しい気分になる。
内部被ばく量を自分で解読するすべが無い。
おそらく、我々茨城県北(お隣の町は福島県)に住む人は
桁違いの放射能を浴びている事になり、
もう、生きていても死んでいると同じとも考えられます。
症状が出ていないだけで。
生き続けるためには何らかの奇蹟を待つしかない。
ある意味、命に対する執着が消えた。
福島の皆さんがこれを読んだらとても傷つくと思うけど、
政府が今まで我々にしてきた事はこういうことだとは
思われませんか?
政府が本気で誠意があるのなら、
直ちに避難しなさい。とあの時に言うべきであり、
今であれば、
子どもを疎開させて、
汚染地域の子どもから始まって、希望者全員、
ホールボディカウンターで
緊急調査を死に物狂いで今、するしかないでしょう。
いや、もう、死ぬ人間なんかにお金使いたくない。って
政府が思っていれば、全く期待はできませんが。
そこで、本当にこの先、どうやって生きて行こうかと
意志決定のための重要な情報になると思う。
私が今、児童疎開を断念した理由は
子どもが、今いる小学校の友達と一緒に学びたい
(卒業までいたい。)という意志に負けた。
そのまま、青森にとどまって転校させようともしたのだが、
常陸太田に帰って来てしまったのだ。
家族一緒が一番に決まっている。
離婚したり、別居したり、奥さんが子どもを連れて
関西に引越すケースが増えているようだ。
そういう意味では我々はとても今、幸せなんだと思う。
恵まれている。
子どもの未来を考えていない母親であるかとは
反省している。
子どもを思うと胸が痛いのだが。
3月は四国(主人実家)青森(私実家)では
3月末から5月と飛び石疎開していました。
小学校の校庭に行って、
ガイガーカウンターで表土の放射線量を計測。
校庭のおよそ40か所を測定
地表に置くと高いところで、0.45μSv/hr
低いところは0.17くらい。
平均してあげても0.25は下回らない。
校庭に出るなという事は子どもに伝えた。
しばらくして、子どもが言いました。
「運動会が5月にあるけれど、
どうしても僕は放射性セシウムが
怖いので、素足で組体操ができない。」
私は言いました。
「それは、正しい選択だ。
小学校とはお母さんが話をつけてくるから
お前は何も心配しなくていい。
運動会は欠席しなさい。練習もでなくていい。」
それで、担任の先生と
校長先生との話し合いがもたれた持たれたわけです。
担任の先生とは、家庭訪問の時に1時間以上も
放射能汚染の件で話をして、よくわかっていただいた。
私も現場の先生方の立場を尊重し、それ以上は
突っ込まなかった。
教育委員会に校長先生は私の測定したデータを
持って行ってくれたが、
「これ、一ケタ多くない?」と言われたそうだ。
その裏を取ろうとはしていないのだろう。
校長先生も私に何か直接来ないようには
防波堤になってくれたようで、感謝している。
学校を休ませるたびに、教育委員会から、休んでいる人の
名前と避難している地域を報告しろと現場の先生方から
何度も電話が避難先にあった。
角度をかえれば、世の中の皆さんに
「あなたは自分の子供だけ助ければいいのか?」
そういう行動に私の行動は見えるかもしれない。
だが、私は思う。
あの時、政府が直ちに避難して下さい。と
一言、言えば、もう少し、多くの人が、被ばくで苦しむ事は
防げたかもしれない。
この2カ月の生き方がみんなそれぞれ違っていたはずだ。
震災直後、なすすべが無かった茨城県の被災地で、
無理だったかもしれないけれども、
少なくとも無駄に出校日に小中学生を学校に通学させて
高濃度の汚染にさらす事もなかったであろう。
私は究極のマイノリティだ。常陸太田市の中では、
それでも、何とか抵抗し続けて、私も少しづつ全容が
見えてきたようにも思いました。
私をこれまで支えてくれたのはママ友のブログだ。
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